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浦和地方裁判所熊谷支部 昭和62年(ワ)319号 判決

主文

一  被告らは、各自、原告野本泉に対し金二三七二万五〇〇〇円及び内金二一九七万五〇〇〇円に対する昭和六二年一二月一六日から支払済まで年五分の割合による金員を、原告野本隆子に対し金二二二二万五〇〇〇円及び内金二〇四七万五〇〇〇円に対する昭和六二年一二月一六日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項のうち各原告につき金一〇〇〇万円の部分に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

一  請求の趣旨

被告らは、各自、原告野本泉(以下「原告泉」という。)に対し四四六六万九一二三円及び内弁護士費用分を除く四〇六〇万八二九四円に対する被告らに本訴状の送達され終った日の翌日である昭和六二年一二月一六日から支払済まで年五分の割合による金員を、原告野本隆子(以下「原告隆子」という。)に対し四〇四六万三六四一円及び内弁護士費用分を除く三六七八万五一二九円に対する前同昭和六二年一二月一六日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  本件の概要及び争点

原告泉は亡清野益美(昭和五七年五月一二日生、当時四歳。以下「亡益美」という。)の父、原告隆子は亡益美の母であり(〈証拠略〉)、被告坂詰正彦(以下「被告坂詰」という。)は住所地で坂詰歯科医院の名称で歯科医院を経営しているもの、被告井坂透(以下「被告井坂」という。)は歯科医師として昭和六一年八月当時坂詰歯科医院に勤務していたものである。

亡益美は、歯痛のため昭和六一年八月二一日、母原告隆子の付添いで坂詰歯科医院を訪れ、被告坂詰との間で歯科医療契約を締結した。そして被告井坂の診察を受け、D乳歯の急性化膿性根尖性歯周組織炎と診断され、同月二五日、同歯科医院において、被告井坂により、D乳歯の抜歯治療を受けた。ところがこの際、抜歯されたD乳歯がこれを挾んでいた自在鉗子から口腔内に落下し、結局声門下部に落ち込んで、付近に分泌の粘液と共に気道に閉塞(〈証拠略〉)し、まもなく亡益美は窒息死した(以下「本件死亡」という。)。

本件において、原告らは、本件死亡が診療医師である被告井坂の注意義務違反によるものであるとして、被告坂詰に対しては、債務不履行又は不法行為責任に基づき、また被告井坂に対しては、不法行為責任に基づき、本件死亡にともなう損害賠償を求めるものであって、その主たる争点は、被告井坂の処置に右注意義務違反があったか否かであり、他に過失相殺の当否、損害額についても争いがある。

三  当裁判所の判断

(一)  本件死亡に至る経緯(〈証拠略〉)

亡益美は、昭和六一年八月二五日原告母隆子の付添いで坂詰歯科医院に赴き、午後二時四五分ごろ母と離れて診察室にはいり、水平位診療用の診察台に仰臥させられ、被告井坂の診察を受けた。被告井坂は、D乳歯の抜歯を決め、歯科衛生士に亡益美の両腕を軽く押さえさせて麻酔措置を採った上、亡益美にやや左を向かせてその顔を自分の左手で軽く押さえ、右手に持った自在鉗子をD乳歯の歯頸部に合わせて脱臼操作を開始した。ところが、事前に抜歯されることを知らされていなかったこともあってか、亡益美が泣いて嫌がりだしたので、被告井坂は脱臼操作を中断し、歯科衛生士共々亡益美をなだめた。しばらくして、被告井坂は、亡益美がある程度落ち着いてきた様子になったとみて、前と同じ様に亡益美にやや左を向かせてその顔を被告自身の左手で軽く押さえた上、引き続き自在鉗子を用いて脱臼操作を再開した。D乳歯は歯槽骨から容易に脱臼した。そこで被告井坂はD乳歯を抜き出すため自在鉗子をゆっくりと頬舌的に動かして、ほどなくD乳歯が抜けたとの感覚を持ったのとほぼ同時位に亡益美が顔を急に右に振り、これがため左頬に鉗子があたってD乳歯が鉗子からはずれ、亡益美の口腔内に落下し、一方、亡益美が大声で泣き始めた。被告井坂は落としたD乳歯を口中から吐き出させようと考え、自分の手で亡益美を起き上がらせて、スピットンに吐き出すように言った。ところが、亡益美は、起き上がらせられた途端泣き声が出なくなって、呼吸困難の状態を示し、スピットンに吐き出そうとしても出てこなかった。亡益美のこの様子を見た被告井坂は、D乳歯が食道内に誤飲されたものと考え、D乳歯を胃の方に落下させようとして、亡益美の上体を起こしたまま同人の背中を数回叩き、次いで同室内に居た歯科医師の指示を受けて、亡益美を逆さ吊りにした形で背中を叩いたり、横にして酸素吸入を施してみたりしたものの、結局症状は好転せず、まもなく亡益美は窒息により死亡した。

(二)  被告井坂の注意義務違反

本件死亡当時において、歯科治療の際に口腔内に異物(抜去した歯牙を含む。)を落下させた場合の歯科医師の対処に関する歯科医療の水準は次のとおりであったと認められる(〈証拠略〉)。

右の場合には異物による気道閉塞が予想される。しかも、歯科治療時には、喉頭部が、食事と違い、開放された状態にあるため、その発生頻度が高い。そしてこれが生じると、適時に気道確保の措置が講じられない限り急速に窒息死に至る。従って、口腔内に異物を落下させた場合、まず気道閉塞が生じていないかどうかを速かに確認しまだ気道閉塞が生じるまでに至っていないときは、水平位診療であれば、患者を横にしたまま顔を横に向かせ、口腔内の異物の位置を確認した上、鉗子等で取り去るという措置を講じ、もって、気道閉塞に至ることのないように処置する方途をとるべきであり、この場合、決して水平位の患者を座位に起き上がらせる挙に出てはならないとされているが、これは、水平位から座位に起こすことによって、咽頭腔に落ちた異物が気管に落下しやすい状態となるからであると説明されている。とりわけ患者が泣いているときや声を出しているときは声門が開いているから、この点が特に強く要請されているところである。

ところが本件では、被告井坂は、自らがD乳歯を亡益美の口腔内に落下させた際、亡益美が大声で泣き出しており、従ってこの時点ではまだ気道閉塞の症状を示すまでには至っていなかったのであるから、前示のような水平位のまま、すなわち、亡益美の上半身を起こすことなく異物を取り去る措置をとるべきであった。然るに同被告は、かえってその挙に出てはならないとされているところの患者を水平位から座位に起こす措置を採ったのであり、これは右の歯科医療水準からみて、診療上尽くすべき注意義務に違反している。そして、被告井坂が亡益美を座位に起こした直後に同女の泣き声が止まったことや呼吸困難を示したことで気道閉塞特有の症状があらわれていたのであるから、被告井坂の右注意義務違反行為によってまだ口腔内に留まっていた歯牙が気管内に落下し、本件死亡に至ったものと認めるに妨げはない。

而して、被告井坂は、このような気道閉塞状態が亡益美に生じているのに、これが気道閉塞状態であるとの事態の認識なく、こうした気道閉塞が生じた場合に考えられるところの酸素補給を施すなりしつつ、患者の体位を逆さにして背中を叩き異物を排除させるというような応急の措置を講じないのみか、かえって亡益美の上体を起こしたままでその背中を叩くという更に誤った措置を重ね、遂に本件死亡に至らせてしまっているもので、これら一連の行動に照らすと、被告井坂の過失の程度は重いといわざるをえない。

(三)  被告らの責任

被告井坂は民法七〇九条により、被告坂詰は民法七一五条一項本文により(同条項但書の主張立証はない。)、原告らに(四)に記載の損害額を賠償すべき義務がある。

被告らは、本件死亡は亡益美が突然首を右に振ったことに起因するから、過失相殺がなされるべきである旨主張するが、もともと本件のような四歳の小児に対し、抜歯をする際完全な体動の抑止を期待するのは困難であるのに対し、歯科医師にとってこのような小児が突然の体動をすることのあるのは当然予想の範囲内にあるものというべきで、そのような事態を念頭に置きつつ、常にこれが対処の方途を考え治療に当るべきであったと認められる(〈証拠略〉)うえ、被告井坂は、抜歯するにつき付添って来た母親の原告隆子に対し、自ら或いは補助者を介して留意事項の伝達が十分でなかったばかりか、亡益美としては母親と離れひとり診察室の中に置かれて抜歯を受けるという状態の中で恐怖心の生じるのは幼児としてやむを得ないものというべく、加えて、亡益美の首を振る行動によってD乳歯が口腔内に落下した後、被告井坂が前判示の如き歯科医療に当然求められていた処置を講じるという容易かつ確実な方法で本件死亡に至るのを回避できたと考えられるのに徴すると本件において過失相殺をするのを相当とすべきであるとはいえない。

(四)  損害

(1) 亡益美の損害

(ア) 逸失利益 一〇九五万円

計算の根拠

年間収入二三八万五五〇〇円(昭和六一年度賃金センサス女子労働者学歴計企業規模計全年齢平均)にライプニッツ係数の九・一七六を乗じ、これから亡益美の生活費分五〇パーセント相当を控除した残額。

(イ) 慰謝料 一〇〇〇万円

亡益美は、すでに四歳に成長し、通常な健康状態の女児であって、この世に生きる喜びを幼いなりに知り、将来への夢も抱いていたと考えられるのに、およそ死に至るとは夢想だにしない歯科治療の場で、付添って来ていた母親からドア越しでは声もかけて貰えずに生命を断たれ、しかも抜歯の際に生じうる窒息死の危険性及びその防止策についてほとんど思い至らなかったとしかいいようのないような態様の注意義務違反が被告井坂に存したため、突如として一方的に将来への希望を奪われ他界しなければならなかったことを考えると、その精神的苦痛は甚大であるといわざるを得ず、そこで右に対する慰謝料は一〇〇〇万円が相当である。

以上合計二〇九五万円(これを原告両名が二分の一ずつ相続する。)

(2) 原告ら固有の損害

(ウ) 慰謝料(原告らにつき)各一〇〇〇万円

原告らが、前示の如き年齢に達した亡益美の成長を楽しみにしている中で、かつ、亡益美の慰謝料の項で指摘した事情をふまえての両親の心情として、このような形で突然にわが子を失ったその苦痛はいうまでもなく極めて強いものであるといえるのに照らすと、原告らが父親及び母親としてそれぞれ被った精神的苦痛に対する慰謝料は各一〇〇〇万円が相当である。

(エ) 葬儀費用(原告泉につき) 一五〇万円

なお、原告らは、葬儀費用等として三八二万三一六五円を請求するが、右の中にはいわゆる香典返しに相当すべき費用も含まれて請求されているなど必ずしも損失として計上する関係にない支出もある事情を考慮し、右請求額のうち一五〇万円の限度において本件死亡と相当因果関係を有するものと認める(〈証拠略〉)。

(オ) 弁護士費用(原告らにつき) 各一七五万円

原告らは訴訟代理人との間で、勝訴額の一割を報酬として支払う約定をしたことが認められ(〈証拠略〉)、右の内本件死亡と相当因果関係を有するのは各一七五万円と認める。

以上原告泉につき 合計一三二五万円

原告隆子につき 合計一一七五万円

(裁判長裁判官 渡邉一弘 裁判官 谷川 克 裁判官 山口信恭)

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